「幸福を祈る」と「他人の幸福」について

なんだかエッセイを書きたいんだよォー!ということでね。

他人の幸福を祈るということがしばしばあります。
とはいっても、手を組み、跪き、天を仰ぐわけではない。
神様を信じているわけではないので何に対してお願いしているのかは分からない。
その時々によって強弱は違うけれども、その人に気持ちを向けるという行為。

祈る対象としてはほとんどが近しい人。
完全に知らない人や、自分が嫌いな人に対してそれを行なうことはない。
と思ったけれども、例えば天災の発生時に被害が少なく済みますようにと祈ることもあるので、そこは自分の中でも定義が明確なわけではない。

祈りってのは、結局心をどこに置くかなんだろうな。
心を、自分を中心に置くのではなく、自分より少し離れた場所に置くこと。
それは意識的なものであったり、気まぐれであったりする。

知らない他人の幸福を本気で祈れないのは薄情なのか?という問いに対して僕はノーと答える。
自分の中の思いやりをどこに向けようがそんなの人の勝手だから。
仮に自分の幸福しか祈れない人がいたとしても、それは慈しむ心を持っていない、という証にはならない。

「ノブレス・オブリージュ」が嫌いなんですよね。
正確に言うとそれを他人に押し付ける人が嫌い。
あなたがそれをやるのは全く構わないけれども、それを他人に強制するのは違うでしょ。

僕は全人類のことを好きになれるとは到底思えないし、嫌いな人もそれなりにいる。
それを悪いことだとは全く思わないし、「嫌い」をちゃんと作れていることは良いことだとも思っている。
だからちゃんと、自分が好きな人に対して自分の「好き」や心を向けていこうと思っている。

僕は僕が好きな人にはみんな幸せであってほしい。
僕も幸せでありたい。
そしてみんなで楽しく話したり暮らしたりしていきたい。

それ以外の人が幸福か不幸かにはそんなに関心がない。
自分を中心とした社会を無理に拡張していったとしても、そこに幸福があるとは思ってないし。

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